kawazu25の日記

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教養と自己啓発の違いについて

 とても似ている言葉に「教養」と「自己啓発」というのがある。でもこのふたつは大きく違っていて、似ても似つかないものだ。それは教養を重んじる人間と、自己啓発を重んじる人間の顔を見ればすぐに分かることだ。

 ちなみに、みこちゃんは教養というものが蕁麻疹が出るほど大嫌いで、自己啓発というのはとっても好きで、ビジネス書は毎月15万円分は買って読んでる。教養おすすめ本はまったく買わない。部屋にあるだけできもいから。

 みこちゃんのいつもの文章の慣例を破って、教養のある人の常識であるいいたことは結論から言う、というのを真似てやってみる。一文は必要な長さにする。読みにくいというのは頭が悪いからなので、みこちゃんのせいじゃない。

 教養とは劣等感に根ざすたちの悪い「推し活」である。

 アイドルの推し活というのは、到達不可能性がとても純粋だ。あこがれの純化したものだよね。ところが、教養のある人は、非常にねじれた思いで自分の推しを推し活する。

 ちょうど、小説家になることに挫折した人間が毒にも薬にもならない解説文章を撒き散らす純文学の使徒となるようなものだ。恥知らずになると、こういうのは書評家というとんでもない肩書で、本まで書いているが、あれはどこまでいっても、ある日文芸批評になることはない。

 苦労の末に小説家になることに挫折したことのある人間ならまだいいんだが、この手の人間は、畢生の大作を書くぞ!と自分にも周囲にもわめき散らしておきながら、ついにたったひとつの掌小説も書いてないという輩である。書くと掌小説すら書けないことが分かるので、書けないからだ。

 でも、無駄に小説を読んでいる回数は多い。例えば、文芸誌の新人賞の発表のときだけどんな作品が入選したのかを探りたくて買って読んでみるのだが、その良さも実はさっぱりわからない。目を凝らして審査委員の講評を読んでみるのだが、それすらも分からない。ちなみにこの話は著名な新人賞を主催している出版社の編集者から笑い話として聞いた。赤字覚悟の文芸誌も、新人賞の発表の号だけは黒字だそうだ。

 大体昨今の芥川賞なんて、もうとんでもない世界で、あれが分かるほうがおかしいんだが、それでも、そういう”教養のある人”は自分の判断基準、審美眼というものがまるっきりないので、芥川賞という賞に合わせて自分の感性を磨こうとあがくのだが、もともと感性のかけらもないのでそういう行動をとるわけで、結果は、やっぱり自分には才能がないんだという、ふりだしにもどるしかないのは当たり前のこと。

 そして、無駄な時間を過ごしたことを一発逆転で廃物利用のエコ生活。その無駄な知識を教養的に語りだす。これが、文芸批評に限らず、哲学や科学、社会学政治学、経済学、その他もろもろの社会科学などでも見られる光景である。

 または、楽器のまったく弾けない、おたまじゃくしも読めない人間が、妙に無駄にクラシック音楽に詳しくて、しかもよく聞いてみるとその審美眼が噴飯ものという、笑えない疲れる状態を思い浮かべてもらえばいい。

 これも同じなんだよな。がんばって「大人のピアノ教室」に通うわけでもない。なぜなら、本来はワーグナーを滔々と語ることのできる<レベル>(苦笑)のこの俺様が、娘と同じくらいのショパンは達者に弾けるけど、バッハのあまり良く知られていな曲など知りもしない人間に指導されるのがいやだからだ。

 推し活は、遠くにいるほどいい。できれば死んでいてくれたほうが面倒がない。だから、教養人の推し活の対象に選ばれるのは、たいてい死んだ大家と相場が決まっている。生きている巨匠だと、自分がぺらぺら推し活で好きなように使徒を気取ってしゃべったことが、今本屋で並んでいる雑誌でまるで逆のこと言われて否定されたりすると立つ瀬がないからだ。つまり死人に口なしとはこのこと。

 

 ここまで書けば、みこちゃんが、自己啓発の人が大好きだと言う理由がわかってもらえると想う。

 みこちゃんは、大人のピアノを頑張ってやってみようかな、という人がたまらなく好きだ。

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 つまり、教養人の世界とは到達不可能性をあきらめて、にもかかわらず、そこに至る道は自分だけは知っているという、社長でもないくせに、社長秘書のブスデブチビお局クソババーを通さないと重要案件が社長に届かない状態になっている末期症状の倒産寸前の会社なのだ。

 教養人が我知らず必死に目指している推し活の行き着く先、成れの果てが、このクソババーである。

 ところが、自己啓発の人は、このピアノ弾いているいかにも55歳からはじめました、というお父ちゃんのように、とってもいい表情をしているんだ。

 これが、最初に言った、その人の顔を見れば教養ヤローか自己啓発愛好家か分かるという意味です。

 自己啓発は、あこがれの存在に到達不可能なものに自分から近づいていく、とってもピュアな自己変革運動なんだ。ところが教養ヤローは自己変革をしようとすると、自分に最初に向き合わざるを得ず、それはとりもなおさず自分には何もないということに今度こそ最終的に向き合わないといけないということを意味するので、必死にそれを遠ざける。その最も効果的な方法が、本当の到達不可能な世界に重い扉をこしらえて、頼まれてもいないのに、その前に仁王立ちに立って番人を志願することである。

 門番というのは、門の中には決して入れてもらえない、主君には一生お目通りの叶わない下っ端の人間がやるというのは、諸大名の江戸屋敷の頃からまったく同じである。しかし、教養人はそこに、最後の倒錯したプライドをやっと見出して後生大事に死ぬまで生きていくのだ。

 ただね、自己啓発というのも、必死に頑張ろうとするあまり、自分で気が付かずに安易に走ってしまうこともあって、そこは注意しないといけない。

 自己肯定感というのは、自分で上げるものではない。そうではなくて、もっと自分らしく生きることが、そのまま社会に幸福につながるような生き方を見つけることであり、その結果として、他者から肯定してもらうというプロセスをきっちり踏まなくてはならないものだ。

 ここで例に出した、給料を上げる方法、というのはおかしくて「会社で認められる方法」だったらいいわけね。こういう風に書いていある本は、ハウツー本とバカにするなかれ。けっこう、その人の人生詰まっているような名著にときどき行き当たるんだよ。

 でも、確かに自己啓発書の中にも粗悪な本もある。

 そういうときはみこちゃんのこの言葉を思い出して欲しい。

 それは教養化した悪しき自己啓発の本である。

 社会的に結局は成功できなかった人間や、自分のどす黒い病をなんとかしようとして心理学なんて自分の問題解決には役に立たないものを大学で勉強して、その無駄な格闘時間の黒歴史をアクロバットで商売にしてしまおうと開きなおってカウンセラーの看板をおずおずと掲げる。

 全部無駄に純文学を読んだ人と同じで、自分で最終的な成功の世界の扉の前に重い重い扉をこしらえて、頼まれてもしないのに、その前に立とうとするんだ。

 これは本来何も影響力のない教養人の悪しき影響なので注意しよう。ビジネス書だけじゃなくて、心理系にかなり悪質なそういう本が散見される。

 

 というわけで短い記事でしたが、教養と自己啓発の違いについて書いてみました。

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 そして、この本体みこちゃんnoteに教養を求める人は、みこちゃんに敵意しか感じないでしょう。「信じていたのに裏切られた」とかいうエゴイズム丸出しの気持ちを持て余すだけだ。つーか、信じていたのに裏切られたってなんのこっちゃだよな。このセリフ病的に好きな人がいるけど、そういう人間に限って人を信じることなど一生知らないんだ。

 私は門の前には立っていません。気に入らないやつは、ぜひ自分で回れ右をしてください。