kawazu25の日記

はてなブログ初心者です。毎日投稿は頑張ってやっていきますので応援よろしくお願いします。

趣味を仕事に出来たら変わる事

僕は趣味だったコーヒーを仕事にして、今東京でコーヒー屋をやっています。

今の自分の好きなことを仕事にしてしまっていいのだろうか、仕事にすることでせっかくの好きなことが嫌いになってしまうんじゃないか、と気にする方もいるかもしれません。

今回は僕自身、趣味を仕事にして変わったと感じることを書いてみたいと思います。

僕は最初コーヒーなんて飲まず、むしろ苦くて苦手でした。なんとなく始めたカフェでのアルバイトでコーヒーに触れるようになって、カフェ巡りをするようになり、だんだんと趣味でコーヒー豆を買って家で淹れはじめました。

その中で美味しいと感動できた浅煎りのフルーティなコーヒーを友達に淹れてあげて、「コーヒーが飲めるようになった!」「なんでコーヒーでこんな味がするの?」といった驚きと喜びのリアクションが最高に楽しくて、こんな幸せをもっと広めていこうとお店を作って発信していく決意をしました。

趣味を仕事にして変わること1:責任が生まれる

仕事にして大きく変わったのは、当たり前ですが、責任が生まれることです。仕事にするということは、価値をつくって、その価値に応じた対価を受け取るということです。趣味はお金を払って楽しみたいことですが、仕事はお金を払ってもらう立場になります。対価を受け取る以上責任が少なからず生まれます。

実際にコーヒー豆を発送しはじめた時には、期待以上の価値が届けられるか責任と不安でいっぱいでした。相手の顔が見えず、声をかけてのフォローができないネット販売こそ、便利さと怖さが両方あります。

お店をはじめて、最初オペレーションに慣れず、コーヒーのオーダーが重なって待たせてしまった時にもピリピリと責任を感じました。こんなふうにして、お金をいただいた期待にどう応えるか、ということが主な関心ごとになってきます。

一緒に働く仲間ができれば仲間への責任、その街や社会への責任を感じることもあるはずです。

サービスの出し手になる以上、必ず誰かの要望や期待に応えることになるので、その責任を全うしてでも成し遂げたいと思える強い熱や、責任や期待に応えること自体が楽しいと思えるかどうかが、仕事にすべきかの大きな判断になるかもしれません。

趣味を仕事にして変わること2:苦手なことも頑張れる

一方でポジティブな効果もあります。趣味で大好きだったことを仕事にすると、本来やりたくないことや苦手なこと、他の人なら諦めてしまうことでも頑張れます。これは本当です。ものすごいパワーが湧きます。

自分が心から達成したいことが生まれたり、好きなことでわくわくしていられたら、苦手な数字とだって格闘できたり、困難やストレスにも果敢に立ち向かえる力が湧いてきます。

その中で、得意なことだけにフォーカスするのか、苦手なことでもがんばっていくべきかどうかはその人次第だと思いますが、少なからず好きというだけでやれる幅も深さも一気に広がるのは事実だと思います。「好き」という熱は本当にすごいエネルギーを持っています。

趣味を仕事にして変わること3:些細なことに気付ける

好きなことを仕事にしていると、細かいことにも気を配って仕事ができると思います。他の人だったらきっと見逃してしまったり軽視してしまうような些細な変化。好きじゃない人だったらそこまでこだわらないようなレベルの商品設計。そんな小さな違いの積み重ねで、新しい価値をつくれたり、受け手にとって本当にいい体験を生み出すことができたりします。

ただこれは裏を返すと、細かいことを気にしすぎて大きな視点を逃す可能性もあるかもしれないし、受け手なり得る「普通の人」の感覚と好きな自分の感覚とがズレてしまうために、サービスや商品が受け入れられにくいということにもなりかねないと思います。

例えば僕のコーヒーだと、普通以上に味を突き詰めていけるのはもちろんのこと、エスプレッソキューブのようなまだ世の中にないような新商品のアイディアも妄想が膨らみ浮かんできました。でも、その職人的な仕事や専門性を突き詰めるほど、コーヒー嫌いな人がどう感じるかとか、チェーン店やコンビニコーヒーを飲み慣れた人が何を求めるか、とはかけ離れた、一部の好きな人には伝わるという体験にもなり得るとも感じています。突き詰めた専門性とみんなに楽しんでもらえる伝え方を合わせて、新しい価値になるのかもしれません。

趣味は仕事にすべきなの?

僕自身は趣味を仕事にしてるんですが、趣味を仕事にした方がいいとか、しない方がいいとか、そんな決まりもルールもなにもないと思います。

ただ少なくとも、好きなことはできる限り行動したほうが楽しいし、仮に価値をつくりたいと心から思えるほど好きになった趣味があれば、仕事にすると、世界で自分にしかできない本当に人生をかけてやる意味のある仕事ができる可能性も大いにあると思います。

あと、趣味を仕事にすると趣味ではなくなってしまうかも、という恐れもあるかもしれません。でも僕は今もずっと変わらず、コーヒーを淹れたり飲んだり、カフェを巡ったりすることが大好きです。つくる側と消費する側で楽しみが違うので、仕事にしても趣味は続きます。

読んでくれた人で、趣味を仕事にしようか迷っている人がいたら、何かの後押しになったら嬉しいです。まだ好きなことが見つからないという方は1つ前に書いたnoteもぜひ読んでみてください。

人生はたぶん長いし、1日1日をわくわく過ごせることが何よりも一番ですよね。そんな選択肢として、好きなことを仕事にしていくのも僕はありなんじゃないかなと思っています!!

 

近年はコロナウイルスの影響により在宅ワークになり、パソコンと向き合う時間が増えて運動量が減ったという方も多いと思います。

僕が診させていただいている患者さんにも、体の不調が出始めるきっかけがデスクワークが増えた事だと感じられている方が多いです。

なので今回はなぜデスクワークによって体の不調が出てしまうのかをお伝えします。
結論から言うと「人間の体は動き続ける為に作られている」からです。


どういうことかと言うと、普段人間の体が脳の指令通り動いているのは筋肉や関節が正常に動いているからです。

その筋肉や関節が正常に動くのは、その部位に十分なエネルギーや栄養素が運ばれる事が大前提になります。

ではそのエネルギーや栄養素がどこから運ばれるのかというと、血液、リンパ液、脳脊髄液などの循環している体液から運ばれてきます。

この体液は心臓のポンプ作用だけではなくて、全身の筋肉のポンプ作用も合わさる事によって全身に巡っていくため座りっぱなしで筋肉を使っていないと体液が滞り体の不調が現れてしまいます。

以上の流れから体の不調が出始めるのですが、これは座っている時のみではなくて寝ている時や立ちっぱなしなどの動いていない時全般にいえる事です。

でも仕事柄しょうがないので諦めるしかないかというと、そんなことはありません。
一番良くないのは体の歪みが強い状態で睡眠を迎えてしまう事です。
睡眠は体を回復させる為に行うものですが、歪みが強いまま睡眠を取るとある程度回復出来ても万全ではない状態で次の日を迎えてしまう事になります。
その睡眠では回復しきれなかった部分が積み重なっていくといずれ体の不調に繋がり仕事に支障が出てしまうほどの症状が出てきてしまいます。

なので大切な事は1日の中で歪んだ体をリセットする時間を作ることが大切になります。
そのリセット方は至って簡単で20分程度のウォーキングです。
デスクワーク中はお尻の筋肉が圧迫されて硬くなっていたり、姿勢が崩れて首が前に出て肩や背中にも負担がかかっているのでその部分へ血流を回すためにも、ウォーキングで使われていない筋肉を使ってあげて下さい。

ウォーキング中に意識する事は大股で歩く事です。
小股になると自然に姿勢が崩れて逆効果になることもあるので気を付けて下さい。

最後までお読みいただきありがとうございます。

ヘイ、ガール

推しが居る人生で良かったって毎日思う。私は自他共に認めるオタクとして生きてるんですけど、マジで思う。毎日思う。推しの居る人生で良かった。なんか、推しという存在があれば大体のことどうとでもなるなとさえ感じる。推しって二文字に私の人生託し過ぎじゃねぇのかと思うけどこれは過言でもなんでもない。いつもありがとう、推し。健やかであれ、推し。

そんな持論がある私にマシュマロをくれた匿名の彼女の推しに異変があったのは昨日のこと。私はTwitterの速報で知った。「俳優三浦春馬、死亡。自殺か」たった一行のツイートにURLがくっついたものが爆速で広まっていくのを数分間ぼーっと見てた。何が起きたのか分からなかった。TLで先にそのニュースを知ったフォロワーが彼の名前をぽつぽつツイートしているのを見てたから、なんだろう?何か賞とかかな?それとも結婚かな?スキャンダルとかじゃないといいなぁ〜とか呑気に考えてたの。不倫問題は拙者もう腹一杯でござるよ〜とか思ってたんだって、マジで。死亡の意味がわからなかった。死亡ってなんだっけ?どういう状態だっけ?って感じよ。人間って驚き過ぎると急に何も分からなくなる生き物ですね。実感したよ。ある種の防衛本能なんでしょうね、人間の。急に飲み込んでしまうと心が誤嚥するから。詰まってしまうから。

 

数分後に意味を理解して、彼のことを思った。元々邦画もドラマもあまり観ないし、恋愛ものもほとんど観ない私。彼の名前、彼の姿、彼の出演作といった感じの脳内連想ゲームで一番最初に出てきたのがブラッディ・マンデイというドラマ。土曜日夜の8時にやってたドラマ。元々その前にやってたルーキーズってドラマがめちゃのくちゃに好きで、その後に放送が始まって流れで観たのが始まりだった。どハマりした。天才ハッカーの役だったんですけど、彼が。すげぇかっこよくてね。語彙力どうした?って問いたくなる表現で申し訳ないんだけども。佐藤健も出てて最高でさ。悪役の成宮寛貴がこれまたオタク女でおめーが嫌いな奴なんぞいねぇ!!と千鳥ノブが躍り出てくるようなキャラクターでさ…。大好きなドラマだった。続編を待ってた。本当に待ってた。あの三浦春馬主演のブラッディ・マンデイが帰ってくる!みたいなね。スペシャルドラマでも良かった。今、コロナで色んなドラマ再放送とかしたりしてたじゃない。ブラッディ・マンデイのこと考えてたのよ、丁度。そのドラマに出てた彼が、主演だった彼が、死んでしまった。急に死んでしまった。

 

マシュマロをくれた匿名の彼女の文章はとても長かった。泣きながら打ったんだろうなって分かる文章だった。誤字が、泣きながら喋って吃ったみたいに見えた。内容は本当に簡単にまとめれば「三浦春馬が死んだ。彼は私の推しで、生き甲斐だった」「生きてほしかった」「私も死んでしまいたい」というもの。この途中経過に実際に生の彼にファンとして会ったときの思い出、いかに三浦春馬という俳優の存在に励まされ支えられて生きてきたのか、愛していたのかが綴られてた。延々と。

私のマシュマロはよくコンセプト無視のメッセージがよく流れてくるんですよ。ほとんどがフォロワーの日記みたいなもんなんですけど。高いウインナー焼いたら美味しくて嬉しかったですとかね。知らんがな!!!というようなことをさも当然とばかりに送ってくるフォロワー(もしかしたらフォロワーではないかもしれないが、じゃあ通りすがりざまによう知らん他人のマシュマロに高いウインナー焼いたら美味かった話を投函してきたのか?何故?という人間の謎に迫らなければいけない気がして考えないようにしている)が溢れてて。多分、大半の人間が私のマシュマロを自宅のリビングか何かと勘違いしてるんだなと思うんです。いいんだけど、別に。可愛いし、自由すぎて。ルフィもこの海で一番自由な奴が海賊王だって言ってたしな。何を人のマシュマロで王になろうとしとんねん。

 

そんな自由人達に紛れて、それなりの頻度で悩みも送られてくる。なんでだろうと思うけど読む。みんな色々苦労してるんだなぁ〜という小学2年生でもまだ気を遣って何か添えようとするだろうというようなありのままの感想を抱く。返そう返そうと思いながら140文字の限界に躓いてなかなか返せなくてすまんな。

 

さて、今回返そうと思った理由は何だったのかは鳥頭なのでもう忘れてしまった。理由考えるよりもまずは返事をしようと思って打ち始めたのかもしれない。あなたがこの記事を読んでくれていたらいいな。そして、あなたと同じように今悲しみのどん底にいる人の目にも触れたらいいな。助けになるかはわからないけど。

 

 

あなたへ

推しが居る人生で良かったが持論の私は、推しを急に失って悲しみに暮れているあなたの文章を読んで泣いてしまいました。名前を打つのも辛いという気持ち、推しで味わいたくなかっただろうなぁ。彼との思い出、彼の何処が好きだったか、彼の舞台の話演技の話人柄の話、色んな話をしてくれてありがとう。私は彼を限られた作品の中の役としてしか知らなかったから、彼をずっと見てきたファンの人から詳しく教えてもらえて嬉しかったです。

 

私がTwitterで彼の自殺という選択を何かの間違いがいいけど彼の選択を間違いとも言いたくないという言葉にしたのは理由があります。まず何より先にあなたの「生きてほしかった」は間違いでもなんでもないよというのは伝えたい。それはそう、きっと誰だってそう。私もそうだよ。

 

私は近しい人を彼と同じ形で失ったことがあります。そして、職業柄死に近いところで毎日働いています。なので、死については日々色々考えます。私が彼の選択を間違いだと言いたくないのはね、人間ってどうしても自殺という形を選んだ人を「どうしてそんな馬鹿なことをしたんだ」とか「残された人の気持ちを考えない最低な奴だ」と責めてしまいがちなところがあると思うんですよ。実際に彼に関するコメントで似たような言葉を幾つも見ました。その人達のコメントもまた個人の死へのコメントにしか過ぎず、間違いでも正解でも無いんですが私はとても嫌だなぁと感じるんです。

 

その命が著名人であれ、一般人であれ、顔も知らんよう知らん人であれ、本名もわからんHNしか知らない存在であれ、その人の去り際や去り方についてそれが間違いなのか正解なのか白黒はっきりさせることは永遠に不可能なことだと思っています。だって自分の人生じゃないし。

 

確かに早過ぎる死でした。勿体無いと思うし、これから先もっと多方面で活躍しただろうしその姿を見たかったって心から思う。訃報ではなく、賞や新たな挑戦で速報になったり話題になったりしていて欲しかった。特に普段から大ファンで彼の出演作も番組も全部追っていたわけでもない私すらそう感じるんだから、あなたの気持ちを思った時言葉にするのは無理だと思った。でも無理なりになんとかやってみようとも思った。文末のわたしも死んでしまいたいを実行されたら嫌だから。そこをなんとかそう言わずに生きてみませんか。どうにかこうにか、この先もやっていきませんか。

 

死についての話題って本当に繊細で、扱いが難しくて、面倒で。それだけ複雑だからってのもあるんだけど。それでも自殺は間違い!と言い切りたくはない。どうしてもそこに至るまでの経緯を考えてしまうから。どんなに辛かっただろう、どんなに心細くてどんなに痛くてどんなに気持ちも身体も重たくて先のことも後のことも右も左も上も下も不安だったんだろうと考えてしまう。確かにその選択をする前に誰かを頼るとか、仕事で悩んでいたのなら芸能界を引退するとか、そういう方向に選択肢を広げられたら良かったのかもしれないけど。その余裕も無かったと言われたらもう「せやな」しか言えんもんね。こればっかりはさ。見捨てるわけでも切り捨ててるわけでもなくて。死って、その人の個人としての集大成なわけです。残された人達の悲しみとか、無念とか、ダメージとかも勿論わかっています。そこを否定しているわけではなくてただ、ただただ、その結論に至るまでの、一生明かされることはないだろう彼の死を選ぶ程の悩みや苦しみや葛藤がずっと渦巻いていたであろうその胸の内を思えば、今は正解不正解よりも馬鹿野郎とかそういう言葉よりもまずは休んでほしい。静かでノイズもSNSも何もない場所で眠ってほしい。穏やかに。彼についてはね、私はこう思う。

 

あなたについては、何て言葉を掛けたらいいんだろう。私はあなたの名前も顔も知らないし、あなたもまた私のことをTwitterでしか知らないけど、どんな言葉を掛けたらいいんだろう。取り敢えずオタクとしてあなたと同じ立場になった時を想像してみた。推しが同じ立場になった時を想像してみた。吐くかと思った。

 

推しって何だと思う?私は、生き甲斐だと思う。喜びだと思う。そして、推しというのは別に人に限ったことではないと思う。

 

あなたの最推しは三浦春馬という名前の俳優の男性だったんだよね。大好きだったし、支えてもらって励ましてもらって彼が生き甲斐だったんだよね。その彼が急に消えてしまったことに取り乱して、酷く落ち込んで、死んでしまいたいとあなたは私に手紙をくれました。推しという存在があるという共通点だけを持って今からあなたに言葉を届けたいと思う。頑張って書くね。

 

死にたくなった時、しなきゃいけないのは「死ぬこと以外の全てをまずする」だと私は思ってる。そんな気力はない、そんなことができていたら自殺する人なんて居ないってよく言われるんですけど、それでもこれしかない。何で言い切れるかって私がそれをやって今生きているから。死んでしまおうと思って首を吊る一歩手前まで行ったことがある。マジで。マジ寄りのマジ。ただ、この理由については今死にたいあなたに延々聞かせるもんじゃないと思うから端折る。

人間、本当に死のうと思った時案外あれこれ考えてないものです。散々最初の方に彼の胸の内がとか書いたけども。あ、コンビニ寄って帰ろみたいなノリです。あ、死のうみたいな。プツンと切れるって表現、あれほんとうにそう。今の今までそんなに考える位頭の中に脳味噌詰まっとらんわって量の悩みや、考え事や、残される家族のことや友達のことやTwitterのアカウントを消してもらうのは誰に頼むかとか葬式に絶対上司呼ばないでほしいなとかいうとんでもねえ量の考えが濁流のように流れ込み続けるような感覚。控えめに行って地獄。横になっても縦になってもその濁流が止まることがなくて、ある日本当に突然に「そうだ!死のう!」と思った。目の前が明るくなったようにさえ感じたの今でも覚えてる。

 

結局、結論だけ書けば犬がね、ついて回ったんです私に。変だなって思ったんだろうね。おもちゃを持ってきたの、一番気に入ってるやつ。そして私の横にひっついて丸まった。私、Twitterでよく泣いたわとか号泣したわとか言うし本当に泣いてる位よく泣くオタクなんですがあの時は盛り無しで人生で一番泣いたと思う。ごめん、ごめん、って大泣きしながらドアノブに掛けた紐をゴミ箱に捨てたこともずっと覚えてるよ。犬居なかったら死んでたんです、間違いなく。だから犬も私の推し。推しは人だけじゃないって、そういうことなんですよね。

 

きっとあなたは今マックスで死にたいと思う。ちょっと勢いついたら死んでしまう。こうもあっさり死ぬかねって位死ぬ。あっさり塩味も目じゃないほどあっさり死ぬ。形も内容も違うなりに経験したから言うんですが、人間って死のうと思えばいつでも死ねるよ。今じゃなきゃ駄目なら止めないんだけど、別に今じゃなくてもいいなと少しでも思えるなら少し待ってみませんか。

 

いっそ死ぬ前に、彼の出演作全部観てみたりしませんか?多分暫く観てないものもあると思うんだよ。この作品の彼のここが良かった、ここが凄かった、ここが好きだとか改めて感じるものをルーズリーフとかでいいから書き出してみるのもいいんじゃないかな。もし彼が漫画原作の作品に出たのであれば、その原作の漫画を読んでみるのもいいかもしれない。演じる上での彼の努力とか、姿勢とか、考えとか見えてくるものがあるんじゃないかな。雑誌もほとんど保存してるみたいだから、インタビューを古い順から最新のものまで読み直すのもどうだろう。何回も読み込んだだろうけど、今だからこそ違った言葉に聞こえたり彼が一生懸命生き抜いた人生に対して思うものももしかしたら出てくるかもしれないよ。舞台のチケット、感想を書きためたノートも読み返してみてほしい。何を思ったのか、感じたのか、受け取ったのか。彼の死を受け入れ切れないなら、生きてる彼を観たらいい。彼の言葉を読めばいい。どうせ死ぬんなら、傷に塩でも何でも塗り込んでいいでしょうが。

 

趣味はありますか?何が好き?食べ物でも、場所でも、本でも、アニメでも、映画でも、ドラマでもいい。旅が好きなら何処に行きたい?読みたいと思ってた本は無い?気になってたアニメや映画は無い?これもルーズリーフで構わないから書き出してみてほしい。埋まらなくたっていいから。書くのが辛ければAmazonプライム、ネットフリックス、今色んなサービスがあるよね。気になった作品片っ端から観たいものリストに突っ込んでいってもいいよ。その作品の数が寿命だよ。全部観るまでは、ちょっと生きてみませんか。

 

好きな作品はある?私は漫画のワンピースが大好き。まずは生きようって首吊るのやめて生きるのに切り替えた時、一番最初にやったのはワンピースを1巻から読み直すことだったの。好きなシーンや台詞を見る度にノートに感想を書いた。あなたに勧めたいのは、ノートとペンを買いに行くこと。自分の気に入ったデザインと機能性のものをじっくり選んで買ってください。ノートはなんでも受け入れてくれるよ。ネガティブなことも、ポジティブなことも。これ一冊書ききるまではちょっと延期しようかなーってノリでいい。今は。人生に疲れている時って新しいものを観るのが難しかったりするから、観たことあるもの読んだことあるものでいいと思うんだけどそれについて兎に角書く。書いて、書いて、書く。死んだら観れなくなる、読めなくなるものばかりだから感想や感じたことを残してから死んでも別に遅くない。案外、その中に続きや続編が気になるまだ出会ってない推しが埋もれてるかもしれないよ。何度でも言うけど、死のうと思えばいつでも死ねるからね。

 

彼の選択然り、あなたがこれからする選択を私は決めることは出来ない。最後は結局あなたに選んでもらうしかない。もしも終わりにするなら寂しいけど止められない。でも、いつでも死ねるなら今はやめようかなって思って立ち止まってくれるのであればそれが一時的なものであったとしてもすごく嬉しいよ。

 

彼があなたにとって絶対的な存在だったのは分かる。色々考えたんだけど、俳優っていう職業ってすごいですよね。例えば名前も姿も見かけたことない人だったとしても、その出演作を見るとあれってこの人だったんだ?ってことがよくあるんですよね。俳優もだし、声優もそう。演じる仕事をしている人は演じただけ姿も名前も人生もあるんだなぁすごいなぁって思う。三浦春馬くんのことで改めてそう思った。私は彼といえばブラッディ・マンデイがすぐ浮かんだんですけど、あとからごくせんって言われて「あぁ〜!!!!」ってなったの。出てたわ〜!!!って。色んな作品に出て、色んなところに彼が生きて働いて残したものがこの先もずっと残っていくのだなと。この先、彼の新しい姿を見ることが一生出来ないのは本当に寂しいことですね。推しの話が全部思い出話になってしまうのも胸が張り裂けてしまいそうになるよね。でもどうにか、どうにかこうにか、やっていくわけにはいかないかな。死ぬなとは言わないから。無理強いはしないから。

 

あなたの推しの話をまた聞かせて欲しいです。彼の話でも、好きな場所の話でも、本でも映画でもアニメでも音楽でもなんでもいいや。何回言うねんサビか何か?って思われても仕方ないの承知で言うけども、死のうと思えばいつでもその気になれば余裕で死ねるんだわ人間なんてさ。だってちょっと高いとこから落ちたら場合によっては死ぬし、刺されても死ぬし、轢かれても死ぬし。マンボウのこと笑ってる場合じゃねぇのよ。お前らも割とすぐ死ぬぞ人類って話よ。仕方なしに生きてみるのもまた手だと思うんです。どうでしょうか。

嫌だわ!って言われたらそれまでなんですけど

それでもあなたとまた会えたら、話せたら、私は嬉しいよ。

ショートショート「つくるをつくる私たちは」

鼓動がはやい。呼吸が乱れている。自覚してる。

音を吸収する素材がはられた壁。なのに、心臓の音がうるさい。なんで?これ、聞こえてるんじゃない?迷惑じゃない?そんなわけないのに、焦る。
そうだ。汗を握っていた手でスマホを確認する。ちゃんとマナーモードになっている。さっきしたもん。すべって落としそうになる。やばい。

大丈夫。大丈夫。落ち着け。落ち着け。

意識して呼吸を深くする。足に力を込めて、膝を見つめる。ゆっくりと息を吐く。

「じゃあ、よろしくお願いしまーす!はい!3…2…、、」
ディレクターの指とともに赤いランプが付く。

顔を上げた先、四角い窓ガラスの奥。
そこには「なりたかった私」がいて、でも、座っているのは私じゃない。

小さい頃、アニメに出てくるヒロインが大好きだった。日曜日の朝にやっている、キラキラふわふわの女の子。少し大きくなってから、声優という人がいるのを知って、猛烈に憧れた。なりたかった。

憧れのまま突っ走り、高校在学中にオーディションを受けた。受かった。たぶん、才能みたいなものがあったんだと思う。その時はそう思っていたし、卒業してすぐに養成所に入った。特待生みたいな扱いが気恥ずかしく、でも心地よかった。がんばって、がんばって、がんばって、声優以外にも求められるものはなんでもやった。海にもプールにも遊びに行ったことないのに、水着は着慣れていった。

瑞波とは、その時に出会った。誰よりも声の鍛錬をしていて、もちろん私だって負けないくらいにがんばっていたけど、でも私たちにくるのはラジオだのイベントだのグラビアだの、声以外の仕事がほとんどだった。「なりたかった私」に近づけば近づくほどに、やりたくないことも近寄ってくる。
毎日ニコニコお疲れ様でーす!な笑顔が貼り付いて、もうなんにも疑問に思わなくて、ある日たまたま帰り道に本屋に寄って雑誌をパラパラしていたら、小さい切り抜きの中で笑顔の自分がニッコリこちらを見ていた。

えっ。誰、これ?

そしたら涙が止まらなくなって、足に力が入らなくなって、ごはんがおいしくなくなった。消費されることに耐えきれなくなった。もう、無理だった。少しして、わがままをいってやめた。

最後に会ったとき、瑞波はなんて言ったっけ?事務所に挨拶に行って、その時すれ違ったはずなのに、思い出せない。

レギュラーでもらっていたナレーションの仕事。どこかの街の魅力を紹介する番組。小さいけど、ていねいにつくられているのが好きな現場だった。
実は……、と事情を伝えて、決められた後輩に番組を引き継ぐ。
いつものディレクター。ぬぼーっと背の高い坂口さんは、見た目大食いチャンピオンみたいなのに胃が弱いらしく、いつもペットボトルの温かいお茶を飲んでいた。
そのときも、待ち合いのブースでお茶を飲みながら雑談していたら「実は独立して会社をつくるんだけど、こない?」と誘ってくれた。

「私、まじでなんにもできないですよ……?」
「大丈夫大丈夫、猫の手も借りたいくらいだから」

たまたまの縁。ありがたく転がり込んだ先はPRや企画をする会社で、まじのまじに猫の手だった。大戦争くらいに猫が欲しい。それでも足りない。
不規則とか急なスケジュールとか忙しさには慣れてるつもりだったけど、自分で自分を忙しさに投げ込んでいくような、やればやるほど時間が足りない毎日は大変で、でも忙しさがなんでも忘れさせてくれた。経験ゼロから必死で食らいついていくうちに、(とりあえず買った)スーツは、ワンピになり、ブラウスになり、Tシャツになり、爪は短く髪はアップ、コンタクトはメガネ、ヒールはスニーカーになった。当時の私は、ほとんど走っていたと思う。歩いた記憶がない。

立ち上げからしばらく、会社も実績をつくりたくて、依頼されるものはなんでもやっていた。坂口さんは人当たりもよくて「坂口さんとこなら〜」の依頼も多かった。最初の頃は、私に名前や声で気がついてくれる人もいてドキドキしていたけれど、そう、世の中の消費は速い。すぐに忘れられたし、私も忙しすぎて気にならなくなった。エンタメのお客さんと近いところにいた経験とか、とりあえずニコニコしてるとか、わかんないところはすみませんもう一回お願いします!と粘るとか、今までの私の強みはなんでも使う。終電が始発になり、睡眠が仮眠になり、シャワーは隣の雑居ビルの満喫になり、帰らない家の家賃の意味を考えるようになった。雑用もなにもかもやれることをやるおかげで、入口から納品までだいたいの仕事がわかるようになった。予算が取れなければ、手弁当で私がナレーションを入れた。

「正直助かってる。ありがたい。でも、ナレーションはこれで最後にしよう」

ある日、馴染みのスタジオでナレーションを録りおわったときだ。坂口さんがお茶を飲みながら、唐突に、でも目を見て言った。

「えっ、ダメでした?」
「いや、そうじゃなくて。うーん、うまく言えないんだけど、それ北田さんの仕事じゃないから」

私の仕事じゃない。たしかにそうだけど、面と向かって言われると鼻の奥がツーンとしてくる。自分からやめたのに、なんてわがままなんだろう。でも、ここを認められると、これが仕事になるとうれしいということは、まだ全然引きずられているってことだ。表現は、呪いみたいなものなのかもしれない。

「予算がないなら、その分の仕事になる。今更だけど、それがあたり前なんだよね。今のやり方じゃいつか無理がくるし、北田さん、割り切れなくなると思う」

そうかもしれない。心のどこかで、私はしがみついている。いたんだと思う。声は筋肉だ。やめればやめるほど、戻すのにはその倍以上の時間がかかる。わかってる。その日を堺に、私はこっそり続けていたトレーニングを一切やめた。

数日後、坂口さんはみんなを集めて、いつもみたいにでっかい手でマグカップを手にしながら、会社を小さくすることを伝えた。お茶は、もう冷えていたのかもしれない。

「できるだけ、納得できる仕事をしたいと思う。なにかを創りたくて会社をつくったのだけど、今更だけど今の形じゃない。お金を作るのと、何かを創るのは、やっぱり違うよね」

みんなそれぞれ働き方が限界に近いのはわかってたから、異論は出なかった。でも、何人かはその場で退職について確認していた。

「いま、なにをつくってる?を大切にしたい。いろいろと足掻いてみるけど、それでダメなら、ごめん」

ダメなら、ごめん。坂口さんが言うと、ふしぎと無責任には聞こえなかった。むしろもっと強い、背筋が伸びるようなことばだった。

みんなで今受けてる仕事を片付けてから、会社は拠点を都内から少し郊外に移した。それからまじのまじで、平社員の私から見てもわかるくらい会社は傾いたし、ほんとにギリギリのギリで今月を乗り切る!みたいなことが続いた。実際に何人かは去っていった。でも、地域に根ざした活動とか、やっと、少しずつだけど納得できる仕事の数は増えていった。

「決まったよ!」

大手の広告代理店とかもこぞって狙っていた大型案件。確実に今までで一番大きな仕事で、受注は奇跡だった。その領域に関係する活動が評価されたのだと思う。
すぐに、社員総出で(ちゃんと寝ていっぱい食べて無理なく)全力で取り組んだ。細かいところを詰めて企画が通るまで、たくさんぶつかった。
特に拠点を移した後に中途で入ってきた宮田さんとは、直接やり取りする領域だったからかなりケンカしまくった。宮田さんは人のいいおじさんという風体なのに、大手から「家が近い」って理由で転職してきたおかしな人で、めちゃくちゃ仕事ができるし、いつもニコニコしてて、でも芯ではすごく頑固だった。だから、ぶつかりがいがすごかった。

「プロモ動画のナレーション、誰がいいっすかね?」
「うーん……。あ!みずみーは?どう?水嶋みずは」「あー、いいっすね。あの透き通った声の感じとかぴったり感ある」
「アイドル売りしてるときはよくいるタイプって感じでパッとしなかったけど、ここ数年すっごい好きなんだよねぇ〜」
「ミヤさん、めっちゃファンですよね」
「うん。最初に娘がハマって、それから妻も俺も大ファンよ」

瑞波。

久しぶりに聞いた名前に反応しないようにしたけど、一瞬。その一瞬はやっぱりバレていて、坂口さんがこっそりこっちを見ていた。私はゆっくり息を吐いて、首を小さく振る。

大丈夫です。それは私の仕事じゃない。

キャスティングは宮田さんの領域だ。そして、宮田さんの感度は正しい。客観的に見て、今、この企画にぴったりなのは瑞波だと思う。間違いない。

「案件規模もイケると思うし、企画の文脈にも合いそうだよね。あとはスケジュールかなぁ」
「ダメ元でも、いっちゃいますか」

スケジュールかぁ。たしかにそれはちょっとあるかも。規模が大きい分、こちらも融通しにくいし。
そんな心配をよそに、打診してすぐに二つ返事で快諾。瑞波に決まった。坂口さんはあれ以来、何も言わなかった。

「よろしくお願いします」

久しぶりに会った(といっても顔合わせで私は端っこにいただけだ)瑞波は相変わらず凛としていて、でもすっと立つ姿はなんか大人だった。チラッとこちらを見た気がするけど、たぶん気のせい。覚えてないか、どちらかというと思い出したくないはずだし。

ひと通り挨拶が終わり、彼女はブースに入る。もろもろチェックが進む。チェックチェック、テストテスト。彼女はあちら側で、私はこっち。クライアント側として、完成したナレーションのチェックと、そのまんまの意味で顔見せをする。しかもチェックは宮田さんが中心だし、顔見せに坂口さんは社長として来ていて、私はまるっとおまけ。隅に座って、ただただ見守ることが役割だった。だけど。

ドク……ドク……ドク……。

心臓が速い。飛び出してくるんじゃないかってくらい、鼓動がうるさい。憧れなのか、嫉妬なのか、かなしいのか。よくわかんない。来ないほうがよかったのかもしれない。
向こう側の、「なりたかった私」の姿は、思い出のやわらかいところをズブズブと刺しまくる。

でも、大丈夫。それは、今、私の仕事じゃない。

私の仕事は、ここに来る前にほぼ終わっているんだ。あとは見守るだけ。

赤いランプが付く。映像とキューに合わせて、原稿が読まれていく。

圧巻だった。

「みずみーって、こんなだったっけ?すごいな」

思わず、宮田さんが立ち上がる。ガラス越しにも集中が見える。没入。声の密度、抑揚、音。息を吸うタイミングまで、こちらが伝えたいものが、いや原稿で書かれている世界を越えて、想像以上の言葉が流れていく。すごかった。

「……OKです」

私を含めた全員が息を忘れていて、思い出したように呼吸を再開する。息を呑むって、ほんとなんだな。その後、宮田さんしか気がつかない、ほんの少しのニュアンスのバリエーションと、言い回しの直しを念の為録って終わった。でも、おそらく最初のテイクがほぼ使われるだろう。

「お疲れ様でしたー」

その後、打ち上げというほどじゃないけど、軽食が出てそのまま軽い懇親会になった。坂口さんはクライアントだの旧友のスタジオマンだの挨拶回りになだれ込んでいった。瑞波は次の現場があるらしく、マネージャーさんとていねいにお詫びして帰ってしまい、話す機会がなかった。
私も一通り挨拶をしたらやることがなくなってしまい、外の空気を吸いに自販機まで歩く。

[ゆり、かっこよくなったね]

スマホが震えた。瑞波だった。
数年前、最後に[ごめんね]と送ったっきりの、既読されたメッセージの下に新しいメッセージですと表示される。数年を飛び越えて届いたみたいでふしぎだ。あのときと、さっきの姿が両方浮かんできて、なんて返そうか迷っていると、見透かしたようにまたメッセージがきた。

[これ、つくったのゆりだよね?]
[企画書見せてもらって名前見かけて、絶対そうだと思った!]
[だから、負けないようにしなきゃって思ったんだけど……。どうかな?よかった?]

[うん。よかった。すごかったよ。]
[おかげで今までで一番の仕事になると思う。]
[ありがとう。]

[うん。こちらこそ。]
[またね。]

[うん。また。]

スマホを握りしめて、気持ちが抑えきれずにブンブンと頷いて、しゃがみこんで少しだけ泣いた。

「はい、どうぞ」

避難してきた坂口さんに温かいほうじ茶を手渡すと「ありがとう。もう大変」とひらひら手を振りながら、応接用のソファに倒れるように座り込む。人気者は大変だ。横に座って、私もコーヒーに口をつけた。まだ十分温かい。

「坂口さん」
「ん?」
「私って、いま、なにか創れてますか?」
「うん。……だって、それが僕たちの仕事だもん」
「ですよね」

坂口さんはやさしく言って、ペットボトルのキャップをひねる。私ももう一口コーヒーを飲んで、先の言葉を飲み込む。また泣いちゃいそうだったから。「なりたかった私」にはなれなかった。でも、今、この人と。たしかになにかを創っている。
一番の仕事だって、最高の出来だって、数年したら忘れられるのかもしれない。消費されて、誰の記憶にも残らないのかもしれない。それでも。

「さて。次、なにやりましょうか」
「そうだなぁ」

つくるをつくる私たちは、なにかを創りたくて、作り続けるんだ。きっと。

いま、なにをつくってる?と繰り返しながら。

24時間の間にスマホをどれだけ使っているだろうか。気が付けばスマホを使ってSNSを開いたりしていないだろうか。スマホが生活の一部となり、便利になった。何でもスマホ一つで完結することができる。

連絡を取りたければスマホ
写真を撮りたければスマホ
何かを買いたければスマホ
本を読みたければスマホ
情報を得たければスマホ

スマホ一つで生きていくことができるようになった。何でもできるからこそ、スマホが無くなってしまえば生活することが難しくなるのではと感じるくらいだ。

これだけ簡単にスマホで情報が手に入ってしまうとあらゆる情報を手に入れることができてしまう。SNSを使えば、リアルタイムでほしい情報を得れるし、友達がどんなことをしているかも知ることができる。

7月末からSNSスマホから離れていたのでnoteの更新も久しぶりとなる。スマホが無ければ生活ができないと思っていたが、案外できてしまうもの。

そして、いつも何となくtwitterinstagramから得ている情報は得られなくても人生に何の影響も与えないという事がわかった。

SNSとはうまく付き合っていかないと信憑性の低い情報に踊らされてしまう。知らなくていいことも知れてしまう。

生きていく上でスマホから得られる情報というものはそこまで重要ではない気がする。それよりも自分の目で見て得た情報の方が価値がある。スマホ上で得られる情報は誰かしらのフィルターを通して、流されているという事を忘れてはいけない。

周りを見渡せば、スマホ画面を見て人生を過ごしている人ばかり。

スマホ画面を見て人生を過ごしていっていいのだろうか。それよりも顔を上げて、自分の目で見て得られるものを感じながら生きていく方がより自分らしく生きていけるのではないだろうか。

周りの情報に踊らされずに生きていくためにも情報はほどほどに。そして、自分の感じたことを信じてあげること。それが重要なことなのかもしれない。

情報社会において、たくさんの情報を得ることは大切ではあるが、知らなくていい情報を受ける意味はない。自分にとって必要な情報とは何なのかを線引きすることも必要だろう。

みんなにとって必要な情報が自分にとって必要かどうかなんてわからないのだから。

本日も最後まで読んでくださりありがとうございました!!!

【今日の格言】

未来や過去に束縛される生き方は自然じゃないさ。
肝心なのは今なのさ。

美容と健康にはおむすびが最適ですね

いつも美容と健康を意識して食生活を過ごしています。

ポテトチップスなどのスナック菓子とか、マックスバリューなどのfast foodとか、ラーメンなど中華料理といった脂こってりの食べ物を、時折、無性に食べたくなる時があります。

でも、気を許して食べてしまうと、一気に体重が増えてしまうし、罪悪感に陥ることになってしまうので、

食べないように我慢しています。

そんな時は、日本人が古来から食べているお米を食べるようにしています。

お米は体に優しいし、脂もないし、美容と健康を維持するうえで適した食べ物だと思っています。

なので

あーおむすび食べたい

と思考して

おむすびを食べ

脂っこいものを食べないように心掛けているところであります。

教養と自己啓発の違いについて

 とても似ている言葉に「教養」と「自己啓発」というのがある。でもこのふたつは大きく違っていて、似ても似つかないものだ。それは教養を重んじる人間と、自己啓発を重んじる人間の顔を見ればすぐに分かることだ。

 ちなみに、みこちゃんは教養というものが蕁麻疹が出るほど大嫌いで、自己啓発というのはとっても好きで、ビジネス書は毎月15万円分は買って読んでる。教養おすすめ本はまったく買わない。部屋にあるだけできもいから。

 みこちゃんのいつもの文章の慣例を破って、教養のある人の常識であるいいたことは結論から言う、というのを真似てやってみる。一文は必要な長さにする。読みにくいというのは頭が悪いからなので、みこちゃんのせいじゃない。

 教養とは劣等感に根ざすたちの悪い「推し活」である。

 アイドルの推し活というのは、到達不可能性がとても純粋だ。あこがれの純化したものだよね。ところが、教養のある人は、非常にねじれた思いで自分の推しを推し活する。

 ちょうど、小説家になることに挫折した人間が毒にも薬にもならない解説文章を撒き散らす純文学の使徒となるようなものだ。恥知らずになると、こういうのは書評家というとんでもない肩書で、本まで書いているが、あれはどこまでいっても、ある日文芸批評になることはない。

 苦労の末に小説家になることに挫折したことのある人間ならまだいいんだが、この手の人間は、畢生の大作を書くぞ!と自分にも周囲にもわめき散らしておきながら、ついにたったひとつの掌小説も書いてないという輩である。書くと掌小説すら書けないことが分かるので、書けないからだ。

 でも、無駄に小説を読んでいる回数は多い。例えば、文芸誌の新人賞の発表のときだけどんな作品が入選したのかを探りたくて買って読んでみるのだが、その良さも実はさっぱりわからない。目を凝らして審査委員の講評を読んでみるのだが、それすらも分からない。ちなみにこの話は著名な新人賞を主催している出版社の編集者から笑い話として聞いた。赤字覚悟の文芸誌も、新人賞の発表の号だけは黒字だそうだ。

 大体昨今の芥川賞なんて、もうとんでもない世界で、あれが分かるほうがおかしいんだが、それでも、そういう”教養のある人”は自分の判断基準、審美眼というものがまるっきりないので、芥川賞という賞に合わせて自分の感性を磨こうとあがくのだが、もともと感性のかけらもないのでそういう行動をとるわけで、結果は、やっぱり自分には才能がないんだという、ふりだしにもどるしかないのは当たり前のこと。

 そして、無駄な時間を過ごしたことを一発逆転で廃物利用のエコ生活。その無駄な知識を教養的に語りだす。これが、文芸批評に限らず、哲学や科学、社会学政治学、経済学、その他もろもろの社会科学などでも見られる光景である。

 または、楽器のまったく弾けない、おたまじゃくしも読めない人間が、妙に無駄にクラシック音楽に詳しくて、しかもよく聞いてみるとその審美眼が噴飯ものという、笑えない疲れる状態を思い浮かべてもらえばいい。

 これも同じなんだよな。がんばって「大人のピアノ教室」に通うわけでもない。なぜなら、本来はワーグナーを滔々と語ることのできる<レベル>(苦笑)のこの俺様が、娘と同じくらいのショパンは達者に弾けるけど、バッハのあまり良く知られていな曲など知りもしない人間に指導されるのがいやだからだ。

 推し活は、遠くにいるほどいい。できれば死んでいてくれたほうが面倒がない。だから、教養人の推し活の対象に選ばれるのは、たいてい死んだ大家と相場が決まっている。生きている巨匠だと、自分がぺらぺら推し活で好きなように使徒を気取ってしゃべったことが、今本屋で並んでいる雑誌でまるで逆のこと言われて否定されたりすると立つ瀬がないからだ。つまり死人に口なしとはこのこと。

 

 ここまで書けば、みこちゃんが、自己啓発の人が大好きだと言う理由がわかってもらえると想う。

 みこちゃんは、大人のピアノを頑張ってやってみようかな、という人がたまらなく好きだ。

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 つまり、教養人の世界とは到達不可能性をあきらめて、にもかかわらず、そこに至る道は自分だけは知っているという、社長でもないくせに、社長秘書のブスデブチビお局クソババーを通さないと重要案件が社長に届かない状態になっている末期症状の倒産寸前の会社なのだ。

 教養人が我知らず必死に目指している推し活の行き着く先、成れの果てが、このクソババーである。

 ところが、自己啓発の人は、このピアノ弾いているいかにも55歳からはじめました、というお父ちゃんのように、とってもいい表情をしているんだ。

 これが、最初に言った、その人の顔を見れば教養ヤローか自己啓発愛好家か分かるという意味です。

 自己啓発は、あこがれの存在に到達不可能なものに自分から近づいていく、とってもピュアな自己変革運動なんだ。ところが教養ヤローは自己変革をしようとすると、自分に最初に向き合わざるを得ず、それはとりもなおさず自分には何もないということに今度こそ最終的に向き合わないといけないということを意味するので、必死にそれを遠ざける。その最も効果的な方法が、本当の到達不可能な世界に重い扉をこしらえて、頼まれてもいないのに、その前に仁王立ちに立って番人を志願することである。

 門番というのは、門の中には決して入れてもらえない、主君には一生お目通りの叶わない下っ端の人間がやるというのは、諸大名の江戸屋敷の頃からまったく同じである。しかし、教養人はそこに、最後の倒錯したプライドをやっと見出して後生大事に死ぬまで生きていくのだ。

 ただね、自己啓発というのも、必死に頑張ろうとするあまり、自分で気が付かずに安易に走ってしまうこともあって、そこは注意しないといけない。

 自己肯定感というのは、自分で上げるものではない。そうではなくて、もっと自分らしく生きることが、そのまま社会に幸福につながるような生き方を見つけることであり、その結果として、他者から肯定してもらうというプロセスをきっちり踏まなくてはならないものだ。

 ここで例に出した、給料を上げる方法、というのはおかしくて「会社で認められる方法」だったらいいわけね。こういう風に書いていある本は、ハウツー本とバカにするなかれ。けっこう、その人の人生詰まっているような名著にときどき行き当たるんだよ。

 でも、確かに自己啓発書の中にも粗悪な本もある。

 そういうときはみこちゃんのこの言葉を思い出して欲しい。

 それは教養化した悪しき自己啓発の本である。

 社会的に結局は成功できなかった人間や、自分のどす黒い病をなんとかしようとして心理学なんて自分の問題解決には役に立たないものを大学で勉強して、その無駄な格闘時間の黒歴史をアクロバットで商売にしてしまおうと開きなおってカウンセラーの看板をおずおずと掲げる。

 全部無駄に純文学を読んだ人と同じで、自分で最終的な成功の世界の扉の前に重い重い扉をこしらえて、頼まれてもしないのに、その前に立とうとするんだ。

 これは本来何も影響力のない教養人の悪しき影響なので注意しよう。ビジネス書だけじゃなくて、心理系にかなり悪質なそういう本が散見される。

 

 というわけで短い記事でしたが、教養と自己啓発の違いについて書いてみました。

 姉妹noteはもちろん自己啓発の楽しい(^-^)noteです。ぜひお越しください。

 そして、この本体みこちゃんnoteに教養を求める人は、みこちゃんに敵意しか感じないでしょう。「信じていたのに裏切られた」とかいうエゴイズム丸出しの気持ちを持て余すだけだ。つーか、信じていたのに裏切られたってなんのこっちゃだよな。このセリフ病的に好きな人がいるけど、そういう人間に限って人を信じることなど一生知らないんだ。

 私は門の前には立っていません。気に入らないやつは、ぜひ自分で回れ右をしてください。